十年ぶりにジャケットを買いました。もう、ジャケットを買うことはないだろうと思っていたのですが。早稲田大に行く電車の中で見かけた女性たちに触発されたのです。
目の前に座っている70〜80代の三人の女性。いつも街中で見る女性たちとは何かが違います。ハッと気がつきました。布製の帽子を被っていない。Tシャツの上にブラウス風の羽織り物を着ていない。大きな手提げ袋やリュックサックを持っていない。足元を見るとスニーカーを履いていないのです。
綺麗に整った髪、地味だけど上質な服、履き良さそうな革靴、揃えた膝の上には小振りのハンドバッグ。背筋が伸びた姿勢。女性のグループにありがちな声高のおしゃべりもありません。
本当に久しぶりに素敵な同世代の同性を見たと思いました。
降りぎわ、ふと耳に入った言葉から、小学校の校長さんのお仲間たちだとわかりました。きちんとした装いは良いなあ。それがジャケット購入の経緯です。
どんな装いをするか、 それは自分が歩んで来た人生を肯定し表現する事でもある様に感じました。
大学の夏期講座にはきちんとした装いで出かけようと思います。

末妹とランチ。大ぶりの花器にたっぷり盛られたトルコ桔梗が涼やかです。いつもの店。入り口の花にホッとします。いつもの時間にいつものメニュー。変化がないことで落ち着くのです。
つい先ごろまでは、話題の店で、話題の食べ物を食べる冒険が好きでしたが、最近はいつもの時間にいつもの店でいつものメニューになりました。歳をとったのですね。変化よりも安定思考になりました。それとは裏腹に、会話の話題には変化が欲しいと思います。「半径3mメートル」の話題、家族や親姉妹の話に終始するのは勿体ない気がします。
道端や公園のベンチなどで楽しげにおしゃべりをしている女性たちは、何を話しているのでしょう。
元々、世間話が苦手だったのが最近とみに酷くなりました。それだけ世間が狭くなったのでしょうか。
最近読んだ本や新聞の記事の話題、昨夜のジャイアンツ戦の感想などをあれこれお喋りできたらどんなに愉快だろうと思います。おしゃべりってなんだろうと考えます。
歌いなれた歌を口ずさむ様に、同じ話題のリフレインである種のカタルシスを得るのがおしゃべりの効果なのかなどと思ったりします。
安定思考と変化を求める気持ちで揺れる私です。

古事記の前期最終日でした。先週講義についていけず悩みましたが、今回は先週の分まで良くわかりすっきりしました。先週は「誓い=うけい=占い」の話に終始したようでした。それを受けて講師が持参した「鹿の骨」を観ながら太古の占いに思いを馳せました。
今日のお話は、皇子の聾唖の原因である「障り」を突き止めるべく占いをし、災いを取り除いてやがて皇子が言葉を発するまでの物語でした。先週はこの「誓い=占い」のことに特化して講義されたので私の理解が追いつかなかったのでしょう。
風聞によれば、講師は五月にコロナに罹患して休講されたそうで、未だ十分に快復したとは言い難い体調だとか。ということは、先週の講義は講師には
かなり大変だったのだろうと思いました。
コロナに感染して休講したことや、その後遺症で辛いことなどに、一言触れて下されば良いものをと思いましたが、大袈裟に言えば、彼我の生き方在り方の違いなのでしょうね。
激しい雨、今朝は久しぶりにピザトーストを作りました。お皿に盛ってから気がつきました。
少し前までは、果物は別のお皿に盛っていたのに、最近の朝ご飯は、大きめのお皿のワンプレートになっています。手軽と言うか楽と言うか。
気がつけば、暮らしの全てが楽な方に流れています。よる年波で致し方ないと思いつつ、どこかに歯止めをしなくては・・・・
ピザトーストは美味しかったです。

吉祥寺で映画を観ました。「九十歳何がめでたい」
原作者の佐藤愛子さん九十歳の時の作品の映画化。(今年で百歳になられたそうです)演ずる草笛光子さんも当年九十歳。超高齢社会に中で「元気づけられる」と評判の映画です。
自ら断筆をしたものの無量をかこち鬱々と暮らしていた愛子さんと、時代錯誤の旧態然とした編集者がタッグを組んで、ベストセラーになった「九十歳何がめでたい」を世に送り出すまでを描いた作品です。編集者の家庭が離婚に至るまでが今の時代を感じさせる挿話になっています。
感想は可も無く不可も無しでした。一番強く感じたのは、原作者の佐藤愛子さんも演じる草笛光子さんも「自分の核」があるということでした。
佐藤さんは「モノを書く」。草笛さんは「演じる」と言う自分を支えて鼓舞する能力がある事です。
その様なモノを持ち合わせていない人間はどうすれば良いのでしょう。自らをふりかえりました。
最近よく聞く言葉に「○○をもらう」があります。曰く「元気をもらう」「勇気をもらう」などなど。
真に他律的です。貰ったものは程なく消えてしまいます。映画を観て一時的に元気になっても程なく消えてしまいます。自ら元気や勇気を生み出すにはどうすれば良いのか。自分の核は何か。詮無い堂々巡りが始まりました。
もしかしたら、この愚にもつかない堂々巡りの思考を巡らせるのが、今の私の核かな。クワバラくわばら。せめて佐藤さんを真似て啖呵の一つもきってみたいものですが、その啖呵が思いつかないのもじれったい。
帰りのバス停に一本だけ、場違いな感じの薊の花。
私にとってはちょっとした心象風景でした。


昨日の土砂降りが嘘の様に爽やかな梅雨晴れの朝です。
散歩道脇の休耕地の数本の蜜柑の木が、今年も実をつけました。去年に比べて、極端に実の数が少ない様です。今年は不作なのかな。
不作と言えば、間もなく都知事選。立候補者は50数人ですが、候補者の立て看板には4枚の顔写真が貼ってあるだけ。
いつもの選挙でも、投票したい候補者がいないのが悩みです。政策論が皆無の選挙。若い人が「誰が都知事になってもできることはおんなじ」と冷めているのがわかる気がします。なんとも気が重い都知事選です。
青蜜柑みたいに清々しい候補者はいないのかな。
今日は二十四節気の「夏至」です。一年中で最も昼間が長く、夜が短い日です。これから益々暑くなり盛夏に向かうのですが、今日は梅雨寒。近来稀な遅い梅雨入りだそうです。
今日は陶芸の日.ピエロのブローチに絵付けをします。夏至の日に合わせて、道化のお祭り騒ぎをする国もあるそうですから夏至の日にふさわしいかしら。
今日から、プロ野球後節が始まります。東京ドームで戸郷先発。ドームだと雨天中止の心配がないのがうれしいです。
 つくづくとひとり我が歩夏至歩く  右城 暮石
 夏至なるに紫陽花の色極まらず   相生垣瓜人
散歩の途中で、生花作家さんの作品をみせていただきます来ました。
涼やかな作品。急に暑くなった昨日今日。涼しげな花に送られて一日のスタートをきるマンションのみなさんは幸せだと思いました。
強い雨の中、吉祥寺に行きました。
いつもこの時期、お中元の発注に百貨店に行きます。雨なら空いているだろうとの予測が当たって待ち時間0で注文が済みました。
お気に入りの喫茶店で、冷たいパスタのランチ。ここもガラガラ。
気のせいか、お店の人の対応がいつもより穏やかで丁寧に感じました。。雨の日のお出かけはちょっと大変だけど、いつもの雑踏がない分ゆったり、のんびり出来ます。
雨の吉祥寺もいいもんだと思います。商店街の花達が綺麗でした。
お陰様で、子どもの頃から授業についていけないことはありませんでした。わかった喜びやできた楽しさを数知れず体験して今に至りました。
古事記聴講も、時々居眠りをする困った聴講生ですが、その時間の中で、共感あり幾つかの気付きや発見があって面白くて10年近く続いています。
ところが先週と今週、講義についていけない自分に愕然としています。講師が何を伝えたいのか掴めないのです。もともと談論風発、縦横無尽の語り口の講義なのですが。
思い余って恥ずかさに耐えつつ級友に聞きました。
「みなさん、先生のお話、お分かりなのでしょうか、私、今日の講義の本筋が分からなかったのです」級友は即座にいいました。「みんな、全部分かっている訳じゃないですよ。先ずは90分、この場にいること。一つか二つ引っかかることがあれば分かった感じになる。論理的に一貫して理解しようとするから、大変なんですよ。学校じゃないんだから、マア、聞きっぱなし」
私の頭が柔軟性に欠けているのでしょう。せめて講師が「今日は○○について話します」と言ってから講義を初めてくれたら、私でもついて行けるのにと詮無きことを思いました。
五月中が、講師体調不良で全休講だったので、聴き方のペースが掴めていないのだろう、ボケた訳じゃないと自らを慰めました。

今年もランタナがとりどりの色で咲き始めました。




ベットカバーを夏用に変えました。古びた部屋が少し明るくなりました。
「衣替え」も、ここ4、5年一度にしたことがありません。四月中に真夏の服を着たり、数日後にはセーターが必要だったり、こんな状況が五月も続いて、早や六月も半ばになってしまいました。
私の頭の中の暦が、気候変動についていけないのです。
昔勤務していた体育大学の学生たちは、T シャツとダウンジャケットだけで一年通していました。当時は奇異に感じた彼等のワードローブが、とても合理的に感じるこの頃です。もう、日本には春物・秋物の衣服は不要なのかもしれません。



今日はお菓子の日、正しくは「和菓子の日」です。西暦848年(承和15年、嘉祥元年)6月16日、仁明天皇が神託を得て、国の平安と民の安寧の為に、菓子や餅を16個、神前に供え年号を嘉祥に改めた事に因んで、全国菓子業界が選定したそうです。あわよくば、バレンタインチョコレートと行きたいところでしょうが、イマイチメジャーになれずにいます。まあそこがゆかしくもあるように思います。
友人から「白松最中」到来。亡き父の好物でした。
そういえば今日は父の日、母の日に比べ、今ひとつ盛り上がりが無いように感じます。
和菓子の日、父の好きだった白松最中を頂きます。